独男の雑記帳

60代コミュ障独身男(結婚歴なし)の存在していた記録

語学か理系かvacillate

自分語り。私は大学は理系だった。しかし在学当時から理系ではなくて語学系専門に転部するか真剣に考えていて、結局そのまま卒業して理系分野で仕事してきたが、科学か語学か、どちらにすべきだったか、20歳くらいから思いはずっと行ったり来たりしてきたという話。

高校くらいから自分は語学が得意だと思っていた。沢山の言語を学んだわけではなく高校までは英語だけで、海外経験があったわけでもない。当時は「語学が出来る」実績があったわけではなく、あくまで「受験英語が出来る」程度なのだが、でも自分では語学はできると思っていた。人は自分が得意なことには、あれこれ試さなくても、自分はこれは得意だ、と思うものだ。

一方理系科目の成績はよかったし、小学校から中学の頃はラジオ工作をしたりアマチュア無線の免許を取ったりしてた。高校の頃は数学、物理の成績はよく、一応理系志望にしていた。

それで大学は理系を受験することにしたが、受験科目に英語があるところから選ぶことにしていた。英語があったほうが自分には有利を思っていたし、実際に入学後はそれがよかったと思った(英語は周りの学生の平均よりは出来てたように思った)。ついでに言えば受験科目の理科は2科目ではなく1科目(物理)のところというのも条件だった。物理以外はよく勉強していなかったため。

それで理系に入ったわけだが、在学中から語学系へ転部するかを真剣に考えていた。自分は理系よりは語学のほうが向いていると思っていた。しかし、結局、転部しなかった。

考えていたのは、語学を学んで外国語ができるようになっても、言葉だけしか知らないことになる。言葉はあくまで手段として、言葉によって伝えられている様々な世界を知るべきではないか。簡単な語学学習なら他のことを勉強しながらでもできる。それに語学はどれだけ頑張ってもネイティブには勝てない(当時は少なかったろうが、今なら帰国子女やバイリンガルは普通に沢山いて、あくせく勉強しても彼らレベルの技量は身につかない。)

一方、科学を学べば日常生活では知り得ない世界を知ることができる。そして科学は専門課程でないとなかなか学べない。専門は科学にして、語学は手段としてあるいは趣味として(自己学習することにして)学べばよいのではないか。

とはいえ自分は語学が好きだし得意だと思うし、一番に興味のあるのは語学ではないか、と迷うのである。

ヘルマン・ヘッセの「義務の道ではなく愛の道を歩め」という言葉をよく思い浮かべていた(高校時代になにかの新書で引用されていたのを読んだ記憶があるが、出典不明)。 ~しなければならない、を選択するのではなく、 ~したい、を選択せよ、という意味と自分では解釈していた。一言でいえば、好きなことをやれ。考えると科学を学んだほうがいいかもしれないが、語学がやりたいなら語学をやれ、ということになる。

結局、理系学部を(いつか書くが、普通より年数かけて)卒業し、その後理系分野で仕事をしてきた。自分は生粋の技術者や研究者にはなれなかったので、研究開発している人のお手伝い的な仕事ではあるが。

しかし、あのころに語学系に移っていればよかったかなと、20代の頃から今に至るまで毎日のように思っている。あるときは、自分が得意だとかやりたいとか向いているとか思ってた語学をやるべきだった、たとえそれで達人にはなれなくても、向かうべきだった、と思う。あるときは、理系の世界に入り、この世界の一部を垣間見ることができてよかったと思う。その2つの思いを行ったり来たり。

思いはずっと2つの間をvacillateしてきたが、最近ある答えに落ち着いてきた。

それは、私にとって大切なのは語学でも理科でもない。高校のときからずっと自分の内を占めていた問題、その問題に向き合い解決しなければならなかった、ということだ。

その問題というのは人間関係、特に恋愛。高校時代に建設的に解決できなかったことで、その後深く傷つくことになり、いつも苦痛の中に居て、今に至りまともな人間関係を築けないでいる。成就されない恋愛。そのために語学にも科学にも、他の何事にも向き合うことができず、何も身につけられず、深められなかった。この3年くらいは、また大きな痛手を味わい、もう人生投げ気味だった。

悩むだけで、一生を無駄にしてしまった潰してしまったと時々思う。もう少しうまく生きることもできたであろうに。語学か科学かではなくて、心を占めていた一番の問題に向き合わなくてはいけなかった。

というのが最近思うことである。