独男の雑記帳

60代コミュ障独身男(結婚歴なし)の存在していた記録

平成になった頃

改元思い出記事。おっさんの自分語り。

平成になったのは1989年1月。その頃は八王子の小さな会社で、自社製品で使っているワンボード・コンピューター周りの仕事をしていた。主には当時主流だった8086系CPUのアセンブラ言語でのプログラミングだった。といっても私がやっていたのは上司や先輩諸氏が作りあげた既存システムに、小さな変更を加える程度のことだったが。また、製品の動作テストなどで、ちょっとした配線をすることがあった。そんなとき役立ったのが、小学校から中学にかけてやっていたラジオ工作(電子工作)の経験だった。回路図を見てジャンパー線をはんだ付けするくらいのことは出来たが、高校や大学の知識より、その経験がその会社で一番役に立ったなと、よく思ったものだ。

当時のPCはまだPC-9801で、会社ではMS-DOSで走るMYFESというエディターを使っていた。検索したら今も販売されている。ちょっと驚いたが嬉しくもある。具体的なことはよく覚えていないが、使いやすかったのを覚えている。

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記憶媒体フロッピーディスク、主流が5インチから3.5インチになりつつあった頃だろうか。その頃20Mbの外付けハードディスクを会社が各人に買うことになり、喜んだものだった。20メガ、ギガではない、しかし当時は大容量だった。

言語としてはBASICとFORTRANをおさわり程度知っているくらいだったが、会社でアセンブラを使い、コンピューターを内部から理解できたのは良い経験だった。またオシロスコープやCPUエミュレーターなども使わせてもらい、楽しい仕事だった。でも私がその後PCをガンガン使っていったかというと、そうはならず、今もPCスキルはさほど向上していない。もうちょっとやればもうちょっとイケたろうに、押さない、踏み込まない。私あるあるだが、残念なことだ。

 

八王子に住んでいたため、大喪の礼の車列を見た。今調べると1989年2月24日(金)。勤務時間を抜けて見にいったのかなと思っていたが、カレンダーを見たらこの年この日は休日だった。自粛ムードに覆われていた日本だったが、それとは別に私は学生のときからずっと、他人とはうまくつき合えない苦しさを抱え、日々を過ごしていた。

晴れない日々、1989年の思い出。また機会があれば昔のことを記しておこう。