独男の雑記帳

コミュ障58歳独身男(結婚歴なし)の存在していた記録

バイクで転倒したけど声をかけられなかった

バイクで転倒してしまった。いつも乗っている400ccのバイクを車検に出し、代車の原付に乗って帰る途中。車一台通れるかどうかの狭い急な坂道を慣れない原付でそろそろ降りていくと、向こうから自転車を押して登って来る女の人が見えた。少し左に寄せようとしたときに雨で濡れた路面で滑り、右側へ転倒した。

右ひざを道路に擦り、右手、右ひじも軽く打った。バイクは右のバックミラーが曲がった。原付とはいえ初めて乗るときはアクセルやブレーキ、車体の感覚など慣れない。バランスを崩したところに濡れた路面で滑ってしまった。慣れないためにスピードを出していなかったのは幸いだった。

右ひざはズボンが破れ擦りむいている。右手もちょっと痛い。でも普通に動く。体は大丈夫そうだ。そう思いつつよろよろと立ち上がり、バイクを起こし左に寄せた。

するとそれまで私の3メートル先くらいで自転車を手にして立っていた女の人は、自転車を押して私の横を黙って通り過ぎ、さらに坂を登って行った。

 

「あれ?」っと思った。自分の怪我やバイクの心配よりも、違和感に包まれた。目の前で人が転倒したら、「大丈夫ですか」と声をかけないだろうか。「大丈夫ですか?」「大丈夫です、ありがとうございます。」こうなる状況を心のどこかで想定していた。

救護義務を言ってるのではない。そもそも今回の転倒は相手に接触したわけではない。数メートル先の相手を見て少し左に寄ろうとした私の立ちゴケと言ってよく、相手に責任があるわけではない。でも黙って通り過ぎて行かれたときは、違和感というか不思議な感覚に包まれるのを感じざるを得なかった。

 

しかし帰宅してひとしきり落ち着いてから考えてみて、あんなものかなとも思い直した。女の人、暗くて顔はよく見えず、また私も動転していて相手をそんなに注意して見なかったのでよくわからないが、20代半ばの若い女の人だったろうか、あの人は私を無視しようとしたわけではない。無視しようあるいは関わらないようにしようと思えば、私が倒れている間に横をすり抜けて坂を登っていくことは出来た。そうはせず、あの人は私が立ち上がりバイクを起こすまで、自転車を手にしてじっと待っていた。おそらく、私は大丈夫そうだということを確かめて、進んで行ったのだ。もし私が倒れたままだったら、その時は、声をかける、手を貸す、救急車を呼ぶなどの措置を取ったのではないかと思われる。

確かに声かけは難しい。相手にかえって迷惑に思われる場合もあり、それを恐れて声かけしにくい人も多いだろう。また女性の場合、相手が得体の知れない男性であればなおさらだ。ましてや私は60手前の未婚男性、ヘルメットはかぶったままで隠れていたが頭も薄いし、警戒は当たり前かも (突然の自虐ネタ)。

 

そんなこんなで、むやみな声かけはしない、でも相手が大丈夫かどうかを観察し、大丈夫とわかったから立ち去る。あの人は賢明な判断をしたのかもしれない、むしろそう思えてきたのだった。

 

でもまあ私は、コミュ障を自称するとはいえ、目の前で人が転倒して他に誰も世話する人がいなければ、「大丈夫ですか?」と声をかけると思う。コミュ障の私が言うのは全くおかしいのだが、声をかけ合うのは悪いことではない。

 

発達障害?

昨今は発達障害という言葉をよく聞くようになりました。ブログでも〇〇という発達障害ですと名乗って書いている人も少なくありません。自称コミュ障の私も、メンヘル的には発達障害に分類されるのかなと思うこともあります。

まずは私にとっての答えをひとことで書いておきます。

どうでもいい。私は私。知ったこっちゃない。

まったくの無知による言葉か、あるいは悟りを得た卓越者による言葉かと思わされます。でもまあ、何十年もの苦しみ、孤独、レッテル貼り、変だと思われてるという思い、そんな過程を経て私が思うことです。実は10代後半のころに精神病の本をあれこれ読み、おそらく自分は病気ではなかったと思いますが、病気かも、異常かもとひどく気にして、自分や人生の認識が歪んでしまったという経験を踏まえてのことでもあります。

「分類」は気にしないということで、自分はどういう場面にどのようにうまく応答できないなど、具体的な症状は自分なりに分析しています。だけどそれがどんな基準でどのカテゴリーに分類されるかは、どうでもいい、気にしたことではないということです。

もっとも、気にしないということは、結局それほど困難には直面していないということかもしれません。友人がほとんどおらず苦しみを抱えつつも、いちおう会社勤めは出来ています。今まで精神科医やカウンセラーと話してきて、発達障害に分類されたことはなかったです。最近カウンセラーに軽く「私は発達障害ですかね」みたいに改めて聞いたことがありましたが、違うだろうという答えでした。なので専門的には発達障害という分類ではないのでしょう。専門的にはというのはつまり、あいさつもろくに出来ない私のことですから、陰で「あいつはおかしい」と言われていることはあり得るということです。

コミュ障は自認します。コミュ障ってネット上で使われる言葉で精神医学の正式な用語ではないですよね。発達障害は精神医学上の分類ですがあまり勉強しておらず、ただあまり気にしてもいないという話です。

ということなんですが、ちょっと乱暴な書き方だった気もするので、予防線も兼ねて2点付記しておきます。1つ目は、今は発達障害についてそれほど知識もない状態で分類を気にしないと言ってますが、今後勉強して認識が変わるかもしれないし、その可能性は高いです。そもそも、自分がそれに属するかどうかに関係なく、無知であるよりは正しい知識を持っているほうがいいに決まっています。ただ生半可な知識だと分類でかえって先入観を持つなど悪影響もなきにしもあらずで注意したいです。2つ目は、これはあくまで私自身のことであるということです。現在苦しんでいる人たちにとっては、きちんと診断してもらい障害なら障害と認めてもらうのは大切なことで、そうすることで本人も周囲も何がどう問題なのか認識し、どうしたらいいのか対処方法が見えてくるものです。それはちゃんと述べておきます。

 

コミュ障記事の方向

コミュ障記事をときどき書く。ああ言えばよかったこと、ああすればよかったこと、自分の内に溜まりに溜まっていること。

1つ1つの記事は暗く行き場がない。しかし単に吐き出したいだけの他に、自分の中ではある方向性を意識している。

まず今のコミュ障状態を記すことは、自分を語り自分をわかってもらいたいこと。更に、そんなコミュ障で頑張っていることを示していきたい。他人に示すだけでなく、記事が自分への支えと励ましにもなる。そしていつか問題を克服し別の人間になったときに、軌跡が示されることになる。そんな方向性を見ている。

というわけで、どうしようもない記事を書いていく。

 

ところで今、全く意識せずにダジャレみたいなことを書いた。

いつか克服し別の人間になったときに、軌跡が示される

別の人間になったら、まず「奇跡」だよね。「奇跡」が示される。そして記事を書き続けていたらそこには、「軌跡」が示される。こういうのは何というのかな、ダジャレというわけではないしダブル・ミーニングというのも違うし。わからん。

 

なお「別の人間になったら」は本当に別の人間になるんじゃない。今のままちょっと改善すればいい。でもそうなったら今とは別の人間、そんな意味だ。もう年も年だし、今から頑張って本当に別の人間になるとしたら、それはもう鬼籍に入るときじゃないか。。。

おあとがよろしく…ない。わけわからない。

 

小学生時代のコミュ障の思い出

コミュ障の思い出などというタイトルをつけてしまったが、小学生時代に「ぼっち」で苦しんだとか、言いたいことが伝えられず困ったとかいう話ではない。今の自分のコミュ障ぶりに思いを馳せるとき、よく思い出される小学校時代の3つのエピソードがあり、それを記録しておきたい。

 

(1) 放課後の教室で1人の女の子が泣いていた。小学4年生の時、教室には5、6人が残っていた。その子がなぜ泣いていたのか、その時も事情はわからなかった。そばにいた女の子が私に向かって「(私)くんは学級委員なんだから、慰めてやりなさいよ。」と言った。それを聞いた私は、ああ、俺ってこういうの苦手なんだなあ、何て言っていいかわかんないよ、と思った。

泣いている子に結局何と言ったのか、その後どうなった、覚えていない。おそらく適当なありきたりなことを言っただけだったはずだ。そんなことしか言えないから。

小学生では人の世話を上手に出来ないかもしれない。それでも他の子と比べて私は、人を世話したり慰めたり元気づけたり一緒に楽しんだり、そういうことがうまく出来ないという意識はあった。そのため「慰めてあげなさいよ」と言われた時、苦手だなあと痛切に思った、そのことをよく覚えている。今も人を目の前にして声をかけるのが苦手だが、そんなときいつも思い出される光景なのだ。

 

(2) 小学校2年生のときに担任の先生が通信簿に書いたコメント。「いろいろ知識があって、話すこともなかなか論理的。でももうちょっと楽しくお話ができたらなあと思います。」担任のH先生は私の本質を把握されていた。

この性質は今も変わらない。もうちょっと楽しくお話ができたらなあ。もうちょっと楽しいブログ記事が書けたらなあ。

 

(3) 近所の人とのお話を終えた母親に私は聞いた。「どうしていつも天気の話をしているの?」

大人はスモールトークを楽しみ、場の雰囲気を和ませ会話をふくらませて相手との親しさを深める。子供はスモールトークをしない。とはいえ、大人の事情もわからずこんなストレートな質問をした私は、今もスモールトークが出来ない。つまり大人になれなかった。

 

3つのエピソード。相手を思いやる言葉をかけてあげることが出来ず、面白い話もスモールトークも出来ない。今の自分の会話下手の原型は小学生のときにすでにあったと、よく思い起こされるエピソードなのだ。

 

PCはパソコン

おぼしきこと言わぬは腹くくるるわざ、とはよく言ったもので、言いたいことがあったのに口にしないでいると、自分の中に溜まってくる。私の中には口にされなかった何百万もの事柄が佃煮のように詰まっている。

 

本当に些細な事だけど、佃煮の1つ。

PCといえば私にとってはいつもpersonal computer、つまりパソコン一般を指すものだった。MacをPCと呼ばない人もいて、その場合PCはIBM互換機のことでMacMacという解釈。80年代の日本では、特にコンピューターに興味がなければ、PCといえばNECのPC98シリーズのことだった。でも私はそれよりはもう少しコンピューターを知っていたつもりだったけどね。

もう25年くらい前、大学時代の知人に会った。私は彼にふと「今PCは何を使ってるの?」と尋ねた。彼はよく出来る奴で、学生時代もプログラムをさくさく書いて研究を進めていた。卒業後数年を経たその当時はいわゆるIBM互換機が日本でも使われ始めた頃で、私はただ単に、彼がそのときどんな種類のコンピューターを使っているか聞いてみたのだった。

ところが、具体的に彼がどう言ったか思い出せないのだが、彼は私がNECの98シリーズの機種を尋ねていると解釈したようで、「いや98ではなくて」と、IBM互換機について丁寧に説明し始めた。

彼から見て私はコンピューターといえば98シリーズしか知らないように見られていたことに、悔しさを感じた。(彼が具体的に何と言って私がそう感じたのかわからないのだが、少なくともその時の私はそう感じた。)

「いや『PC』って98シリーズじゃなくて、personal computerの意味で聞いたんだけど」口元まで出ていたが、黙り癖がついていて誤解されたり低く見られたりしても抗弁しないことも珍しくない私は、何も言わなかった。それに彼のほうがよく出来るのは確かで、どうでもいいところにムキになることを避けたかったのかもしれない。

しかしその場できちんと言っておかなかったことは自分の内にずっと残る。PCという単語を聞くと、彼とのやり取りが思い起こされた。「あの時PCと言ったのはpersonal computerの意味だよ。」最近は薄れてきたが、ずっと私の中で疼いていた。

 

ところで彼は私と会った3か月くらい後に結婚した。会って話したときに、もうすぐ結婚するという話も聞いていたのだろう、私は結婚祝いとしてウェッジウッドティーカップセットを彼に送り届けた。

しかし彼からはお礼も何も連絡はなかった。まあ、礼を期待して贈り物するわけではないけれど、迷惑だったのかという思いにとらわれた。その後お互い疎遠になり、今に至る。研究者としての彼の経歴はネットでわかり、大学教授になって10年以上経つ。病弱のところもあっていろいろ苦労もあったろうが、物腰柔らかい彼のことだからきっと学生にも好かれ、優秀な研究者として活躍しているだろう。

さすがだなと思う。そしてこうも思う。でもごめんな、結婚祝いなんか送って。迷惑だった?

こちらも私の心の隅で小さな傷となって疼いていたのだった。

 

PCと結婚祝いでセットになっている私の佃煮を、やっとここに吐き出すことが出来た。こうして見ると私ってほんとにくだらない奴だと思う。私から結婚祝いなんかもらいたくないのもよくわかる。

 

平成になった頃

改元思い出記事。おっさんの自分語り。

平成になったのは1989年1月。その頃は八王子の小さな会社で、自社製品で使っているワンボード・コンピューター周りの仕事をしていた。主には当時主流だった8086系CPUのアセンブラ言語でのプログラミングだった。といっても私がやっていたのは上司や先輩諸氏が作りあげた既存システムに、小さな変更を加える程度のことだったが。また、製品の動作テストなどで、ちょっとした配線をすることがあった。そんなとき役立ったのが、小学校から中学にかけてやっていたラジオ工作(電子工作)の経験だった。回路図を見てジャンパー線をはんだ付けするくらいのことは出来たが、高校や大学の知識より、その経験がその会社で一番役に立ったなと、よく思ったものだ。

当時のPCはまだPC-9801で、会社ではMS-DOSで走るMYFESというエディターを使っていた。検索したら今も販売されている。ちょっと驚いたが嬉しくもある。具体的なことはよく覚えていないが、使いやすかったのを覚えている。

www.megasoft.co.jp

記憶媒体フロッピーディスク、主流が5インチから3.5インチになりつつあった頃だろうか。その頃20Mbの外付けハードディスクを会社が各人に買うことになり、喜んだものだった。20メガ、ギガではない、しかし当時は大容量だった。

言語としてはBASICとFORTRANをおさわり程度知っているくらいだったが、会社でアセンブラを使い、コンピューターを内部から理解できたのは良い経験だった。またオシロスコープやCPUエミュレーターなども使わせてもらい、楽しい仕事だった。でも私がその後PCをガンガン使っていったかというと、そうはならず、今もPCスキルはさほど向上していない。もうちょっとやればもうちょっとイケたろうに、押さない、踏み込まない。私あるあるだが、残念なことだ。

 

八王子に住んでいたため、大喪の礼の車列を見た。今調べると1989年2月24日(金)。勤務時間を抜けて見にいったのかなと思っていたが、カレンダーを見たらこの年この日は休日だった。自粛ムードに覆われていた日本だったが、それとは別に私は学生のときからずっと、他人とはうまくつき合えない苦しさを抱え、日々を過ごしていた。

晴れない日々、1989年の思い出。また機会があれば昔のことを記しておこう。

 

改元で人生振り返り

5月だというのに真夏の暑さ。もうすぐ6月、梅雨、そして暑い夏。令和だ連休だと騒いでいたことが、もうずっと昔のように思えるが、あれからまだ1か月も経っていない。改元に際し平成を振り返った人も多かったのではなかろうか。

私は昭和を28年3か月、平成を30年3か月、令和を1か月近く生きたことになる。

昭和前半は何も考えず平和に生きていた。後半は悩み傷つき孤独で苦しかった。大学在籍8年に、うまくいってなかったことが表れている。平成は前半に数年なぜかイギリスに居た。これは英語力や仕事の点でlife-changing eventであったが、平成も心の底ではずっと苦しかった。

今までの人生を今の自分が140文字以内でまとめると、こんな感じになる。

令和も昭和・平成と同じくらい、30年生きたいな。何かを自分でやり、世の中がどうなるかしっかり見届けたい。もう孤独ということに縛られず、もっと自由に生きていけるといいなと思う。