この数年テレビCMで「三太郎」がよく取り上げられるようになった。素晴らしいことだ。三太郎といえば、「三太郎の日記」である (*1)。哲学者阿部次郎が1904年(大正3年)に発表した思索の書。戦前、旧制高校生の必読の書であったという。
私も今から40年前、高校生のときに読んだ。昔の若者が読んだと聞いて覗いてみたという程度だが。しかしその一節は今もよく覚えている。
手元の本から書き写す。「十九 人と天才と」の章の冒頭 (*2,*3)。
何を与えるかは神様の問題である。与えられたるものをいかに発見し、いかに実現すべきかは人間の問題である。与えられたるものの相違は人間の力ではどうすることもできない運命である。ただ稟性を異にするすべての個人を通じて変わることなきは、与えられたるものを人生の終局に運び行くべき試練と労苦と実現との一生である。与えられたるものの大小においてこそ差別はあれ、試練の一生においては ― 涙と笑いとを通じて歩むべき光と影との交錯せる一生においては ― すべての個人が皆同一の運命を担っているのである。もし与えられたるものの大小強弱を標準として人間を評価すれば、ある者は永遠に祝福された者である者は永遠に呪われた者である。これに反して、与えられたるものを実現する労苦と誠実とを標準として人間を評価すれば、すべての人の価値は主として意思のまことによって上下するものである。そうして天分の大なる者と小なる者と、強い者と弱い者とは、すべて試練の一生における同胞となるのである。
一人一人持っているものは異なる。もしそれを1つの基準で比較すれば、優劣が生じる。しかし人は一人一人が自分の持っているものを実現すべく努力するという点で、みな平等であり仲間である。
この一節を読んで、人が上下に並んでいるのではなく、各人がそれぞれ自分の山を登っている、そんな山が無数に世の中に拡がっている、そんな光景が目に浮かんだ。
平成の言葉で翻訳すれば
ということになる。
自分の山に登り続けよう。自分だけの美しい花を咲かせよう。